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マスコスホテル誕生のきっかけ

社長の洪 昌督(こう しょうとく)です。

今回はマスコスホテル誕生のきっかけについて書こうと思います。
一言で表すなら、それは島根県芸術文化センターグラントワの存在。 

日本を代表する建築家の一人、内藤廣氏が設計したこの建物が“この”益田市に誕生していなければ、マスコスホテルを建てることは絶対になかった、それほどグラントワの誕生は私にとっては大事件でした。 

私は高校卒業まで益田市で過ごしたのですが、当時の私の益田に対する印象は最悪そのもので、お世辞にも郷土愛などという尊い気持ちはなく、むしろ完全否定の対象として、夢も希望も持てない「片田舎」という位置付けでしかありませんでした。 

当時、少年だった私にとっては大袈裟でもなんでもなく、本心からそのような気持ちで益田という街を俯瞰していました。 きっと私と同様の思いで益田を離れて行った人達は多数存在するのではないかという確信めいた思いすらあります。このことが地方から人がいなくなる最大の原因と言っても間違いではないでしょう。 

家族を愛し尊敬する気持ちはあっても、将来に希望を抱くことが本分の少年にとって、憧れの対象となる街、すなわち大人を身近にまた魅力あるものとして感じることができないというのは酷な話です。 海も山も川も全て揃う自然環境には充分すぎるほど恵まれているこの土地で、己の一生を考える 時、指標となる存在に出会うことの出来ない街。私の場合はその空白を、映画や文学、そして音楽で埋めていきました。その意味においては、インターネットのない時代に海外の映画コレクターだった父親には感謝しなければなりません。 

テレビから垂れ流される国内マーケットに偏りすぎた日本のメディアやアーティストと呼ばれる人たちの作品と距離を置くことが出来たのは、海外の作家が生み出す高潔な作品群との比較 によるところが大きく、少年の純粋な感受性にその差は圧倒的だったのです。魂を売った大人が作った産物と大人が魂を込めて作り上げる真の作品との違いと言ってもいいでしょう。もちろん、国内にも素晴らしい作品は数多くありますし、日本のテレビと海外の映画を比較してしまっている時点でそもそも対象が間違っているのですが、子どもにとっては同じ大人が作り出すという点に相違はなく、ただ純粋にそのように感じていたのです。当時の気持ちとしては、日本のテレビは何故こんなにダサくて幼稚なのかと、怒りの感情を抱えていました。今となってはそのダサくて幼稚な理由に私なりの解釈がありますが、それは今回は省略します。 

街はそこで暮らす大人たちの思考と行動の連続で現在を更新し続けるわけで、魅力のない街というのはそこに暮らす大人そのものとイコールになる、つまり街に魅力がないのは大人に魅力がないことに他ならないと考えていました。未だにその想いは大きくは変わりません。ただ、その厳しい目を今度は自分自身に向けざるを得ない環境に身を置くことになったのが当時と今との決定的な違いです。

そんな二度と帰りたくないと思っていたこの街に帰ってきた私。人生これからという20代後半で、今後は「ここ」で一生を過ごさなければならないという、事業を営む家の一人息子として生まれた自分の宿命に対する絶望感に打ちひしがれる中、初めてグラントワに訪れた際、とても一言では言い表すことのできない感動を覚えました。 

私が子どもの頃に出会いたかった高潔で純粋且つ洗練された正真正銘の本物のクリエイターの姿が、建築というインタラクティブな空間として“あの”益田に誕生していたのです。それも郷土の伝統である石州瓦を全身に纏った姿で。 

この出来事は街に巨大な隕石が落ちてきたほどの衝撃と変化を私にもたらしました。まさしくその後の私の人生を大きく左右する出来事です。東京でクリエイターとして名を揚げることを諦めて帰ってきた私に、もう一度クリエイターとして歩むことを後押ししてくれる存在が、身近に誕生していたのです。 この時点で、益田という街の捉え方が私の中でマイナスからプラスへと大きく逆転していきました。グラントワに足を運ぶたびに、「お前もっと頑張れよ」と戒められるような気持ちになるのです。それは、癒しの空間であると同時に生きることを急かされるような、相反する感情が渦巻く場所として。 そんな自分のような人間の気持ちを受け止めてくれる存在があることが、それから約3年ほどして創業した益田工房というデザイン会社を営む上でも大きな支えとなりました。少なくともグラントワに行けば、デザインや文化そして芸術の重要性を理解してくれる学芸員や職員の方々と交流することができ、価値観を共有できる同志が存在する場所、言い換えるなら聖域がいつでも足を運べる場所にある。これは少年時代の孤独からの解放を意味します。 

上空からグラントワを捉えた様子

 

益田工房創業後、デザインに対する理解の低い街で最初は苦労の連続でしたが、10年という長い月日をかけてデザインの重要性を街に浸透させるという目的の遂行に一定の達成を実感するにつれ、次第にもっと直接的にまちづくりに参加したいという思いが強まっていきました。

私は寝る以外にはぼーっとすることができず、常に何かしらの邪念や雑念が脳裏に現れては消えてを繰り返してしまうタイプの人間で、あるとき、益田を訪れた人たちにとって、「すごいのはグラントワだけで、それ以外は特に何もない街として映っているのではないか」という疑念がふと湧いてきた瞬間がありました。「それでは困る。いや、本当にそうなのか?」自問自答する中、では何が今の自分に出来るのだろうと考えた時、私には一つ確信(妄想)に似た答えがありました。

当時、現実問題として、益田には宿泊施設が足りていませんでした。私は落ち着きがなく、性急に動き出してしまう性分なのですが、すぐさまその確信を携え、ほとんど発作的に駅前の土地を探しに出かけていました。駅前に向かったのは益田駅前の裏手にある飲食店が立ち並ぶ通りの魅力を知っていたからです。益田市は島根県西部においてダントツで飲食店の多い街です。尚且つそれが一ヶ所に固まっていてどこも美味しいというのが最大の魅力です。以前からその魅力をもっと伝えることはできないものかと考えていたのですが、そこに宿泊問題が私の中での妄想と結びつき、益田の飲食店街にすぐにアクセスできる宿泊施設が出来ればきっとこの街の評価も上がるのではないかと考えたのです。チェーン店ではない、地元の人がプライドを持って営む個人商店が並ぶ通りはこの街の財産です。そして何より、そのすぐ先にはグラントワがあるのです。この必然をこの街の大人が大きな魅力として認識し、力を入れて打ち出すべきです。

見つけた土地は、今ではグラントワ通りと名のついた駅前に面した大通りで、飲食店街と駅をまさにグラントワと直線上で挟み込める場所にあったのです。すぐに当時社長であった父にこの話をしたところ、私以上に行動力のある父はすぐさまその土地を押さえてしまったのです。 私としてはいつもの勢い任せの妄想を口に出しただけのほんの軽い冗談に近いつもりでしたが、父には本気のプレゼンのように捉えられてしまったようで、こうなってしまうともう誰にも止められません。そこからマスコスホテル誕生までの道のりは大変険しいものになりまし た。 

手前にはマスコスホテル。奥にはグラントワが。写真中央の通りに飲食店が立ち並ぶ。左の通りがグラントワ通り

 

その苦労話は別の機会に綴りたいと思いますが、宿泊施設を作るということは、大型建築を益田に誕生させることになります。そこでの私の思いは、ただ一つ、なんとしても本物と呼べるものを建てたいというものでした。豪華絢爛な宿泊施設やグラントワほどの究極の建築は無理でも、これならなんとか恥じることなく胸を張って満足してもらえるギリギリのラインを目指しました。グラントワという存在がなければそこまで自分を追い込むことは決してなかったはずです。ビジネスを超えた地域の矜持の問題として表現したいと思ったのです。これがマスコスホテル誕生のきっかけです。

グラントワ内の島根県立石見美術館で開催中の企画展会場入り口

 

この記事を書いている現在、そのグラントワで内藤先生の展覧会を開催中です。『建築家・内藤廣/ BuiltUnbuit 赤鬼と青鬼の果てしなき戦い』と銘打たれた企画展は、内藤先生がこれまで実際に手掛けられた建築模型と実現しなかった建築模型が所狭しと並び、尚且つそれら一つ 一つに先生の葛藤の様子が赤鬼と青鬼という相反する人格を通して語られるのです。そして展示室Cでは内藤先生の言葉が壁全体に散りばめられた空間に、映画館さながらの特大サイズの映像演出として、益田工房が指名されたのです。こんな夢のような出来事が起こるなんていまだに実感が湧いていないというのが今の私の正直な気持ちです。私の人生を変えるほど大きな影響を与えた建築を手がけた内藤廣の展覧会に私が撮影した映像が展示の演出として起用されるなど、たとえいかに私の想像力が豊かであったとしても、想像すらしていませんでした。今回我々に白羽の矢が立ったのは、グラントワ15周年の際、内藤廣の建築案内という、内藤先生のインタビュー動画を、長年お世話になっている石見美術館学芸員の川西由里氏のご紹介により撮らせていただいたのですが、その作品を高く評価していただけたことがきっかけのようです(この映像も展示室Aで展示されています)。仕事が仕事を呼ぶとはまさにこのことですが、“あの内藤廣とクリエイターとしてご一緒させていただけるなんて、人生何が起きるか本当にわかりません。 

内藤先生はとても気さくで穏やか、人に圧力を与えるようなそぶりを一切見せる方では無いの ですが、私がまだ先生にお目にかかったことのない時期にいつも感じていた「お前もっと頑張れよ」と未だに言われているような気がして、悠然と構えるグラントワと対峙している時のそれと同じ気持ちになるのです。奇しくも、内藤先生と私の父は昭和25年生まれの同い年。私はその二人の男によって人生を大きく左右されて今を生きているのだろうと考えると不思議な気持ちになります。先生と父を比べることはできませんが、私にとってはどちらも偉大な人物で、このジェンダーレスの時代に、敢えて昭和のマッチョな言い方を借りるなら、あの世代特有の“男の生き様”からもろに影響を受けてしまっているのです。それは最後の最後まで戦い抜くことを意味します。ということで、これからもっと頑張ります。

展覧会前の試写を眺める内藤先生と偶然にも同じポーズをとる私 ※展示室内の写真は特別な許可を得て撮影しています。

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