2025. 08. 17
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この夏、衝動的に思うこと。
私が一番好きな季節は夏で、夏が来ることを毎年楽しみにしています。益田の夏は高津川も日本海もあってもちろん最高ですが、例えば日本が夏以外の季節に夏を満喫できる国へ家族と旅行に行けることが叶うとしたら、私にとってそれは最大の楽しみです。ただ、今年は本当に暑いですね。体力が奪われることで気力まで削がれてしまうような暑さで、乗り切るのがなかなか大変だと感じている方も少なくないのではないでしょうか。
とはいえ、社会生活を営んでいると想定外の出来事は次々に生じ、そのたびに時間や労力を割かなくてはならない場面があります。この数ヶ月を振り返ると、大きな出会いや別れが同時に訪れ、自分にとって特別な季節となりました。あえて固有名詞は挙げませんが、ここまで感情をあらゆる角度から大きく揺さぶられた経験は、これまでになかったように思います。喜怒哀楽を誘発する出来事が津波のように一度に押し寄せてくるような時間を過ごしてきました。
そのおかげで、家族のこと、友人のこと、会社のこと、社会のこと、世界のこと。つまり「生きるとは何か」という問いを改めて考える時間を持つことになりました。そもそも私は、生きること、そして死ぬことを常に意識してきたつもりです。
子供の頃、喘息で体が弱かったこともあってか、在日三世としてアウトサイダーとして生きることを運命づけられていたからか、あるいは事業を営む家の一人息子として生まれたからなのか、常に死ぬ時を想定しながら生きてきました。今はむしろ、自分以外の人が「生きること」をどのように捉えているのかを知りたい気持ちが強くなっています。
そのきっかけは、誰かと出会い、同じ時間を過ごし、会話を交わし、共に何かを創る中で、時に大きな幸福を感じる瞬間があることです。そしてその幸福は、死生観が一致している時に生じるのだと、この歳になって気づきつつあります。
私は文化や芸術にしか関心がないと言い切ってしまえるほど、文化芸術に惹かれる人間です。お金や権力にはほとんど興味がなく、極端に言えば「自分は何を生み出せるのか」という問いにしか、時間も意識も使いたくありません。文学、映画、音楽といった自分の愛するものを共有できる人と出会う時、彼らもまた私と似たような死生観を持っていたりすると、その瞬間には何とも言えない高揚を覚えます。
私はゲームや駆け引きのようなものは得意ではありません。かといって純粋とか無垢というわけでもなく、自分を「クズ男」だと定義している部分もあります。しかし、譲れないのは自分の表現です。それが音楽であれ文学であれ映画であれ、とにかく創り続けることが全てです。結婚して子供が生まれ、会社を二つ経営している今も、その思いは消えていません。
マスコスホテルについて「バカだ」「クレイジーだ」と言われることがありますが、それは確かにそうでしょう。常識的で商業主義的な経営者であれば、この土地にここまでこだわり、身の丈に合わない投資をして宿泊施設を建てることなどしないでしょう。しかし私は、それを敢えてやってしまわなければ気がすまない人間なのです。
私には人生の恩師と呼べる映画の師があります。その方がよく言われていたのは「最低でも50年、100年残る作品を作りなさい。それが本物だから」という言葉です。その影響もあって、私は古代ギリシャの哲学や中国哲学、ロシア文学といった、数百年、数千年にわたり読まれてきた哲学書や小説ばかり手に取るようになりました。私程度の頭では過去の傑作を読み切ることすらできないほど、世界には偉大な作品が溢れています。
マスコスホテルは、50年後、100年後の益田の景観に自然に溶け込み、その時代の人々に「残ってくれて良かった」と思ってもらえることを想定して建てています。
私は自分を「クズ」だと書きましたが、それは理性や知性が足りず、肉欲に流されてしまう自分を自覚しているからです。「バカ」と言い換えても良いかもしれません。
日本社会では、社長という肩書きを持つと「お金や権力を持つ人」と見られがちですが、実際にはそうではないことを多くの経営者と金融業界にいる人は分かっています。つまり肩書きは評価する要素にはならないということです。その上で私が言いたいのは、人を評価する基準は「どのような思想を持ち、何を生み出せる人なのか」という一点に尽きるということです。そのどちらも持たない人が社会的に高い地位にいても、よほどチャーミングでない限りこちらから近づきたいとは思いません。
ただし、そうしたいわば俗物的な人が意外とチャーミングであることも多いと、40を過ぎて気づきました。俗物として際立っているからでしょう。俗物にしか経験できない事柄が世の中には確かに存在し、そこには驚きや発見、さらには一種の尊敬すら生まれることがあります。
私が文化や芸術を愛するのは、モテたいとか特別視されたいからではありません。(正直に言えば、全くないとは言いません。)ただ、大前提として、理想的な社会の在り方を望むからこそ作品を生み出すのです。本来そこに説明を求めるのは野暮なはずですが、現代社会は説明だらけになってしまいました。
私は説明がなくとも感じ取れる知性と感性を持つ人でありたいですし、自分の作り出す何かが、説明を伴わずとも人の魂を揺さぶる作品として残ることを願っています。そんなふうに思う、2025年の夏です。